気で生きた木

覚ることについて書いています。

ぶつけてくる奴ら。

頭の中が明るい時は、息子達の幼少の頃の可愛い思い出が頭に浮かびます。

それはもう、他にはないエピソードがあったり、たまらなく愛溢れるもの。

 

ところが、この2、3年は、嫌いな人が頭の中に現れます。

何故かその人が特に登場回数が多いので困っているのですが、

思い出さなくてもいいのに月に2、3回は思い出して、

てめーのせいで鬱なんですけどって言ってやりたいくらい嫌いなんです。

デリカシーの無さ。何気なく放つ言葉で私が傷つく。笑

それが最大の原因なのですが、

たぶん本人は、自分はなかなかの繊細な人だと思っているはず。

 

たぶん、多くの人は、そんなに気にならない程度のことかも知れません。

私が人を遠ざけたくなるのは、「間違った感性」で私を汚されたくないし、

その人が放つ言葉が、私を怒らせたら、私がその人を嫌わなければならなくなる。

怒ってしまったら、その人と同レベルになってしまうっていうじゃない。

なるわけないわ!!!と常に怒っています私。

 

 

自分の思いが溢れるばかりに、挑戦状のようなものをぶつけてくる人もいらっしゃいます。

本人は、機嫌よく調子よく話しているだけなのかも知れません。

ですが放つ言葉は、「私は本当は色々出来ますよ」っていうことを、

言葉の裏側に隠しながら、私に引っかき傷を作っていくのです。ガリッとひとかき。

凄いですねーと一言欲しいのだろうか。

でも、実際は自分が求めている華々しい結果は出していないのです。

だから、他人に、出来ることを解ってもらいたい思いが強いのです。

そうなんだろうなあ。私と共に仕事をするわけでもないのに変わってんなあと思いました。

でも、よく考えてみると、何故その人のそういう気持ちがわかるかって、

20年ほど前の私もそんな時があったからです。

 

 

「ちょっと関わっときたいと思う発信者。」というのが気になるわけですね。

それでSNSなんて簡単に話できるので、わざわざメッセージ送ったりして、相手にちょっとこっちを向かせるわけです。

気にしてもらいたいということ。

何かあれば気になるでしょうけど、私には何も形になっているものがないので、

誰が気に止めようか。

よく気づいたな、自分のちからの無さを。と褒めてやりたいです。

今だって、力は無いけれど、やらねばならんらしく、渋々やってんねんから。

好きなようにぶつかってきやがって、どいつもこいつも(心の声)

 

 

次男が勤務する会社は、瞑想をさせるそうで、

先日私の鬱の話などをすると、「瞑想やってるか?」と次男に問われ、

ちょうどその前日、それを思っていたところで、タイムリー。

母の事やら何やらで、長い間やってなかった。

「嫌なことがあっても受けるな。動じるな。それでも無理な時は瞑想しろ」

と会社で教えられているようです。

すげー会社に勤めてんのね次男よ。(宗教団体ではなく、広告会社です)

 

あいつらが瞑想すればいいのに。と思う私は、まだまだでございます。

あいつらも。にすればいいのか。(「あいつら」呼ばわりは良いのか)

 

他人を思う時のエネルギーが嫌なものとならないように、

心を広くしておけということだな。

何も感じずに生きたいわ。。。(本音)

 

 

色々としんどすぎるので、先日竜王様にお願いいたしましたら、届いたようで、

昨日、この家の真上に龍雲がとぐろを巻いて、弁財天様と共にいらっしゃいました。

龍の蛇腹が大きくて、すごい迫力だったけど、顔がどこかわかりにくくて、

「顔どこ?」って言ったら、すーっと弁財天様が現れて、竜王の顔の前に。

それで、あ、顔ここか。って言ってしまいました。笑

竜王様のご真言(オン メイギャ シャニエイ ソワカ)をお唱えしました。

弁財天様のご真言をど忘れしたので、

「後でお唱えします」って言いました。不届き者。

弁財天様のご真言は、オン ソラソバテイエイ ソワカ です。

 

神様のお話をしていたら気分が晴れてきました。神聖ですね。