気で生きた木

覚ることについて書いています。

想念で生きる人

 

命式を出し本人の宿命がどういったものかを見て

どう生きれば充実するかを主に見るのですが、

社会における自我全盛期の20~65歳では

現在進行形のものをどうやって変えていくかが問題になることもあります。

 

一番出来そうで困難だろうと思うのは、性格

性格というのは遺伝と環境による習慣の両方だと思いますので

無理にでも意識をしなければ変える事はできません。

 

変えろ。と私は思っています。

変えられなくても、

意識しなければそのうちに親しい人との間に傷が生じます。

親密になればなるほどその事象はいつか出てきます。

 

私自身の体験を言いますと、

私の両親は勝手に物事を進めてしまいます。

本人達のことであるならいいのですが、

私がメインで進んでいることがそうなるので結果が私の思うものでありません。

何故私に聞いてから行動してくれないのだろう?

とても私のことを想っているのに、どうしてその部分だけ自己主張するんだろう?

私の好みを知らないのに何故勝手に進められるのだろう?

家族ですのでそれを聞いてみますと、

それがいいかなと思うからやけど、嫌なら好きなようにしたら?と言います。

 

 

現実ではこんなことはどの家庭、どの関係でも常時起こりうることです。

ほとんどの人は素通りしてゆけるレベルとしているか、

一瞬むかついてまた同じ事が起こったらまた一瞬むかついてを繰り返すのでしょう。

つまり、仕方がないということにしてしまう。

相手方に色々言ったところで、私も結局仕方なく日々が過ぎます。

 

上に挙げたのは一例です。ケースは色々あると思います。

現実に起こっていることについて言わないけど色々考えてるんです。

というタイプの人は、

本当に色々考えてくれていますし全体的には大変有難いです。

なので家族に持つととても安心できたりもします。

ですが、何故言わない?

そこが性格です。

直りはしないけれど、考えてほしい意識してほしいところです。

何故って、決して良いとすることではないからです。

悪気がない。だから良いということではありません。

 

 

想念で生きている人達というのは、

大体これでいける というのが根底にあります。

そして実際それで大きな風に乗り、

何かわからないけど頼りになるという印象で生きていきます。

人生でヘタを打つことを嫌うのでそうならないように

それだけの事をやってのけていきます。

自身の心の中では深く考えているのだと思います。

それはとても立派なことです。

が、深く何を考えたのかを周りに伝えなければ

ただのエゴイズムとなる場合があると学んで正解。

学びというのは日常で感じ習得するもの。

 

 

余談ですが

私がこういうことを言うと、「そういうのは流すとこやん」と言うのが

人間界の人間。

やはり私は人間界とは合わんな。と感じる瞬間でもありますが、

これは私の修行でもあります。

虚の中で実を得ろ、実を得る事はないが得ようとしろ。ということです。

全くを持って現実世界での将来性はありませんが、

とにかく精神を崇高にしていくことを必死でやれと言われています。

非常に疲れますが死にたくはなりません。

果たしてこれが幸せなのかと自分に問うてみました。

覚るということが幸せなのか。

私の覚りは、現実に生きる人たちと考え方が掛け離れるのがわかります。

成長するにつれ、虚ばかりで実がないのでかなり苦痛の方が大きいです。

途中死にたくなりましたがその時はまだ大きな気付きがなかったと思います。

大きな気付きがあってからは学んでいる事を認識し、それが幸せだと感じています。

勘違いされて困るのは、

覚るというのは単純に全てを許すことだと思っている人がいること。

冗談じゃないです。

 

実を得る事が出来る人には何を学べば良いのかを知っていただき

是非ご自身にとっての幸せを少しではなく目一杯感じてもらいたいです。

 

 

 

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