気で生きた木

覚ることについて書いています。

隙あらば試練

生きるというのは、運命を生きるということで、

1人ずつに与えられた役割の為の試練は、

どうしたってどこかのタイミングでやってくるのだなあと、つくづく思います。

一度体験したからといってもうその試練の時は来ないというわけではないです。

言うならば、試練というのは何も拘らずとも自然にそういう人であれるように鍛えるということだと思います。

ですから、魂がよっしゃと頷くまで、隙あらばと試練が向かってくるように思います。

簡単に言えば、

「ほら、またあんたこんなことになってるやん。なんでやと思う?

わかってるやろ? ほんで、どないするの?」と言われ続けている感じです。

 

 

社会対自分について考えていると、

挙げ句の果てに、何も考えないでいるほうが楽なのではないかと思うようになるのですが、

そうではないということも私は理解していて、

その先に必ず全てを熟知した上で人を演じるのが私の宿命だとはっきりしているのです。

私の場合は、コミュニケーションが試練とされますが、下手というわけではなくこだわります。上辺の付き合いが不要。というのが本音です。

私自身はこれでいいのですが、社会は繋がりが好きだから上辺だけでもどうでも繋がりたがるので、そういう常識から外れていると思います。

人の言葉や態度に神経質ですし、神経質にそこを重視することになり、鬱や不安症がなくなりはしません。

私に起こってきた現象は算命学では陰転していると言うだろうと思います。

 

 

陰転というのは、よろしくない傾向の現象として書かれていることがほとんどですが、

私の宿命の、「何もかも理解した人」を生きるには、陰転もしなくてはいけないのだろうと思いました。

しっかり陰転していますがご心配なく、想定内です。と、占者として自分に言うのです。

皆さんに起こりうることも想定内です。

ただ、陰転するというのは大体は心の病みを伴いますので、それが身体の病になるのは避けたいのです。

毎日少しずつ会社などで関わる人や仕事内容により、心と体のストレッチが出来ているのだと思えることが感謝だと思います。

心と体のストレッチは、目の前にやってきたことに対してどのように応じるのか、

行動したことによる対象の反応、自分も全体も本当の許容範囲なのか、

一部始終に誠心誠意で関わるということです。

 

私は現在企業勤務はしていませんし、家族が対象となりますから最小限のコミュニケーション試練の途中です。

考えなくとも自然とあるべき姿で過ごせていると思います。

それは、父も同じように考えてくれているからだと思いますし、お互いの思いやりで成り立つということを体感している最中です。

息子達から連絡が来た時も、どう答えるとこの子にとって良しとなるかを考えます。

たまに顔も知らない息子の上司の悪口を息子よりも言ったりもしますし、戒める時もあります。

完全に息子達のほうが普通に生きていますので、私が言うことは健康でいてくれということだけですが。

 

一通り考えてみて思うのは、

目の前にやってきたことに関係している人達は、お互いの人生に関わっている人達。

 

 

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